安定した自我を保つためにはどうすればいいのだろうか?ほとんどのクライエントの悩みの軸となることであると思う。自我は人間にしかなく、その他の動物にはみられない人間固有のものであるという解釈は一昔前のことのように思うが、人と他の動物とでは明確に違っている部分が多いのも事実であろう。動物は本能のままに、外界の脅威に対して自らの感覚と情動のバランスに応じて行動を決定する。目の前に自分より強い動物がいて敵意を向けてくれば、不安に感じ逃げればいい。反対に勝てそうであれば噛みつくこともあるかもしれない。動物は人間と違い、その場の力関係に応じて不安を攻撃や逃避という行動によって解消することができる。
それでは人間はどうか?仕事でミスをしてたくさんの同僚の前で怒られる。恐い恥ずかしいという感情や逃げ出したいという不安も出てくるかもしれない。それでも泣いて逃げ出すわけにはいかない。じっと耐えてその場をやり過ごすか、その場に相応しい返答をしてやり切ることもあるだろう。人間は動物と違い、このように本能のままに行動することが制限されることばかりである。本能のままに生きている限り悩みを抱えることはないのかもしれない。
ここで疑問に思う鋭い人もいるだろう。動物も躾をすれば餌を食べずに待つこともできるし、不用意に人に噛みついたりすることもなくなるだろうと。それは動物が自我を持ったといえるのか?答えはノーである。それはあくまで人間にとって社会的でないと判断した行動に対して、人間によって社会的な行動をしなかった際に不快を与え社会的な行動をした際に快を与えることで行動を操作しているにすぎない。それはその場の快や不快があるからこそ生じる社会的とされる行為であり動物が自ら考え感じ、自らを律しているわけではない。
さらに鋭い人ならお気づきかもしれないが、これは人間社会にもよく見られることなのだ。社会生活の中で人に受け入れられることだけに集中し上下関係や利害関係の中に快を求め続け、行動している限り、それは社会的な行動であり続ける。社会に求められる期待と自己を一体化させ、苦悩することなく上手に生きている限り自我と向き合う機会は少なくなってしまう。自分とは社会であり、社会的であることこそ自分自身であると社会への過剰適応の末、自我と向き合うことを疎かにすると、少しずつ綻びが生じてくる。社会的な立場を家庭の中に持ち込んでしまったり、社会に受け入れられていないと生きている価値や存在を見出せない等のクライエントの悩みはよくあることだが、このようなアイデンティティのゆらぎは決して思春期特有の問題でなく、すべての年代にみられるのだ。
なぜ真由は自分を強く持つことができたのか?それは社会に受け入れられないものの大切さを諦めきれずにもがき苦しんできたからだ。人に関心が向いているのに、快を得ることができない、悲しみを抑圧したいのに不快な感情と向き合ってしまう。欲しいものを我慢する、欲しくないものを受け入れる。けれどそれが自分自身なのだと気付いている。まさにその中で自我は鍛えられる。単純なことかもしれない。
誰しもが物心ついた時から葛藤していたわけではないだろう。人と話していても周りの友達と比べてなんだか自分は違うと、少しずつ漠然と自分は社会に受け入れられるものではないと感じ徐々に後退し社会的な自己像と自分自身で受けいれるしかない自己像が分離していったのだ。
そこで自分自身で受け入れるしかない自己像の存在を軽視してしまえば楽になれるのだが、それを無視することができないところに内向的感情型らしさを感じる。社会的な手綱を持ちながら自分だけが大事にできる価値観と向き合うことはそう簡単なことではないのだ。どちらを選ぶか、それはタイプにもよるし、その人自身の意思や経験にも依存するが、どちらも持ち続けることよりも、片方を手放して、人生の自然に訪れる時期に、手放してしまった手綱をもう一度握りしめる時期がくる。