あなたの利き手は左手と右手のどちらであろうか。一般的に右利きの方が世の中には多いとされる。
外向型と内向型の二つのタイプも利き手と同じように表現することもできる。
仮に右利きの人ように作られた世の中では左利きの人は何かと不便が生じることは想像できるだろう。反対もしかりである。
自分の両手のどちらの方が器用か、力が強いのかはすぐに判断することができるだろう。それと同様に自分が内向型人間であるか外向型の人間であるかもある程度実感があるのではないだろうか。そして、自分と人とを比較することも社会生活で重要なことだろう。だが、意外な盲点があることも知っておかなければならない。
それは、右利きで普段から右手を使用する人の中には左手も左利きの人以上に器用に使用することができる人がいる。その反対もある。内向型の人が外向型の人以上に外向性が高いこともあるし、外向型の人が内向型の人間以上に内向性の高いこともある。反対に内向型の人でも外向型の人以上に内向性の低い人もいるし、外向型の人でも内向型の人以上に外向性の低い人もいる。
例えば企業で優れた能力を発揮し、必要とされる人材は、どういった人材だろうか?
私は内向型人間であったとしても、外向型の人間よりも外向性がある。若しくは外向型人間であったとしても、内向型の人間よりも内向性がある場合が多いように感じる。
個人の中でのタイプの優劣の差も大切だが、他者と相対的に比較してみるまで分からないこともあるということだ。他者を置き去りにして自己に関心を向けているうちに外向型の人よりも内的な世界観を狭め、内側に関心を向けることに価値を見い出すことができなくなっていることもよくみられる。
内向型にとって外向型の立ち位置を理解することが自らの内向型としての価値観を信頼するための必要な過程なのだ。自らの価値観に固執し、漠然と他者の立ち位置を恐れ批判的にみる限り自らの価値観や立ち位置をも軽視することにつながることが多い。
例えば内向型の人間にも世の中に高く評価されている人や偉人は存在する。けれど、その多くの内向型の偉人は、研究者や芸術家のような職種でもない限り外向型の人よりも外向性の高い場合がほとんどであるだろう。考えれば当然のことだが、私が伝えたいことは偉人が特別な存在だと言いたいのではない。
人は他者との比較の中からこそ共通性を見出していく。そして内向性と外向性はどちらも一人の人間において重要な要素を担っているということにつきる。人は自らを成長させることができる。
あなたは利き手と非利き手、どちらを器用に使いこなせるだろうか?
自分の手が器用になっていく過程をどこまで実感してきただろうか?
あなたの左右の手、更には他者の手と比較してどのような違いがあるだろうか?
もし、利き手が突然使えなくなってしまったら生活にどのような制限が生じるだろう。
どちらにも関心を向けられる人をCG、ユングは両側性といった。ただ、両側性の人はむしろどちらも未発達なことが多いと表現している。人は自己理解を経て他者理解に向かい、そして本当の意味で自己を理解するのだ。内向性が強く持つ人は外向性を取り入れることでより内向性を高めることができるのだ。
自分のタイプの立ち位置にとらわれていると自分の立ち位置からの判断でしか世界をみることができないようになる。自分(内向型、外向型)の制限が強いタイプ以外の立ち位置を明確に意識することは簡単なことではない。自分とは違うタイプの立ち位置を意識するためにまず必要とされるのは自分の立ち位置を明確に意識することだ。それが立ち位置の違いを知り経験を積み重ね確固たるものとしていく初期段階となるだろう。外を感じることは同時に内を感じることにもなるのだ。そしてお互いの領域をより明確に意識することができるようになるのだ。